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壬生町/壬生氏の興亡

rental:wikipedia–三つ巴 壬生氏家紋 https://goo.gl/Kcz8fk
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【壬生氏の出自】

壬生氏の出自は諸説あるようです。室町時代に京都の官人家・壬生家(小槻氏)の後裔として、壬生胤業を祖とする説。毛野氏族の壬生氏(壬生公)の後裔とする説。あるいは、壬生胤業を宇都宮氏庶流横田氏の一族である壬生朝業の末裔とし、壬生朝業を壬生氏の祖とする説。さらに、天台宗三世座主に就いた慈覚大師円仁を出した上古からの在庁官人壬生氏の後裔とするものがあります。この上古壬生氏は、古代に東国を平定したた崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔を称し、平安初期都賀郡南部を勢力下においた豪族で、円仁が修業した大慈寺の発展にも寄与した豪族であったとのこと。そしてこの壬生氏が平安、鎌倉時代において徐々に武士化し、室町時代中期に壬生城を築いた。やがて、宇都宮氏の被官となり、家督に宇都宮氏もしくはその一族から養子を迎えて、宇都宮氏の一門として発展してきたと説かれています。

参考 壬生町史他

 

【壬生氏の鹿沼進出】

『壬生町史』通史編Ⅰには、壬生氏は、下野一宮宇都宮明神(二荒山神社)の神官領主宇都宮氏の一族で壬生(壬生町壬生)一帯を領してみずからの名字とした。ただし、連歌師紫屋軒宗長の紀行文「東路のつと」(『群書類従』一八)には、「かぬまといふ所に(壬生)綱房父筑後守綱重の館あり」と記され、宗長が鹿沼を訪れた永正六年(一五〇九)の時点では、すでに壬生氏は鹿沼への進出をはたしていた。綱房の代には、二男昌膳を聖地日光山の実質的な最高位である御留守職に就任させるとともに、綱房自身は広大な神領支配の責任者である惣政所となった。(「押原推移録」)と記されています。

参考 随想舎 江田郁夫著「下野の中世を旅する」

 

【壬生胤業、新町に屋敷を構える】

さらに壬生偉人伝によりますと、壬生胤業は、下野の戦国時代が始まる、15世紀前半に活躍した人物である。胤業が、1462年に壬生の新町堀之内(あらまちほりのうち)に屋敷を構えたことにより、壬生城の歴史が始まったという。壬生氏は、胤業のあと、綱重、綱房、綱雄(つなたけ)、義雄(よしかつ)の五代にわたり、戦国大名として壬生城を支配した。現在の壬生城を築いて本拠としたのは、二代綱重とされている。やがて壬生氏は、1590年豊臣秀吉の小田原征伐の時、北条氏に味方したため、北条氏の敗北とともに滅んだとあります。

参考 壬生町図書館資料 壬生偉人伝「壬生のあゆみと文化」

 

今日の壬生町繁栄の礎が、勢力争いの厳しい室町時代における壬生氏の活躍にあるということが窺われます。

 

次回に続きます。